第40回(20年9月)

The view from Mt. Haigamine

小林夫妻

「無理せん ようにねえ」「わしが直せりゃ ええんじゃが… 広島から戻って ずっとだるうて のう」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p97)

小林夫妻はともに広島に入ったのか、2人とも具合が悪い模様。

逃亡準備中の周作

「逃亡じゃ」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p99)

次回の「第41回 りんどうの秘密(20年10月)」では、反乱の制圧を名目に、上陸してくる占領軍から逃亡。

何故周作達が逃亡しなければならないのかは上官に訊かなければ判らないが、周作が「第27回(20年3月)」中巻p124)「えーと… 捕虜兵士… captive soldiers」と呟いていることから、周作達は捕虜を扱っているようであり、以下のリンク先によれば、1945(昭和20)年3月19日の捕虜ではないが、1945(昭和20)年6月22日に呉攻撃に向かい撃墜された事例では対応した日本側の者が戦犯とされている。

「父ちゃん そりゃ横領……………」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p103)

そう言う周作は上官と逃亡準備。

「中から 見よったら いきなり 板きれが 落ちてきた ………」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p99)

サンの血を拭いているのはすずの左手。周作の不肖っぷりがサンにまで実害を(子供の頃からなのだろうが…)。「第11回(19年7月)」で「ありゃ周作 変につついて 壊さんのよ!」と懸念したとおり。

下段のコマで、ユーカリの木も折れている

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p104)

屋根に2箇所、穴が開いている。1箇所は周作の仕業だが、何をどうしてこうなった!?

すみからの葉書の謎

「すみちゃん が生きとる」「ほんまじゃ こりゃ「草津」 からじゃね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p103)

亡くなったと諦めていたのだろうか。

この日は1945(昭和20)年9月17日。それでもなお、1946(昭和21)年1月まで、すずは広島に行くことができなかった。

ところでこの葉書には何が書いてあったのだろうか。「第44回 人待ちの街(21年1月)」ではすみが(すずが何も知らない前提で)全部説明しているが。

父の十郎が倒れたのは1945(昭和20)年10月なので、母のキセノが見つからないという事が書いてあったのだろうか…何にせよ、わざわざサンに「」付きで喋らせているが、物語の必要上、すみが生きていて草津に身を寄せていること、さらにそれを、すずではなく周作が知る必要があった(「第44回 人待ちの街(21年1月)」で、すずがすみを見舞う事が出来たのは、周作がそう気遣った(それだけが目的ではなかったが)から)ということではある。

すみが「第44回 人待ちの街(21年1月)」で「知らせるひまが 無うてごめんね」と言っている。本当は暇がないのではなく、知らせる気になれなかった(父の事だけでなく母の事も)のだとすると、この葉書もすみが送ったのではないのかもしれない。すると誰が送ったのか。

下段のコマで、すみからの葉書を持っているのはすずではなく径子

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p104)

皆笑っているが、背景は「歪んどる」まま。

全員は揃わない。元には戻らない。

「…だいじょうぶ ……ズエたんは 道だけじゃ……」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p101)

左手ですずの左足首を掴んでいる。とっさに出す手が左手ということで、径子も晴美と同じく左利きなのだ。

ところでこんな台風の夜に何処に出掛けていたのだろうか? そして、崖崩れに巻き込まれてようやく登ってきたばかりなのに、何故刈谷の家が大丈夫と判るのだろうか?

「間違いなく 姉ちゃんじゃ」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p101)

「くどくどくどくどくどくど」だから。

「あとは 円太郎 だけ じゃね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p101)

北條家としては、もう一人、晴美が戻ってきていない。

「解雇じゃ げな!!」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p102)

奉職から42年。呉海軍工廠廃止は約1ヶ月後の1945(昭和20)年10月15日。

枕崎台風

「これはつい先月まで 不滅の神州と うたわれた島々 / 神風に護られて いたはずの島々」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p97)

台風の進路予報に予報円方式が使われるようになったのは、1982(昭和57)年6月から。それ以前は扇形方式だったが、それも1953(昭和28)年6月からであったので、枕崎台風当時、ここで描かれているような情報を住民が得ることはできなかった。

にも関わらずここで描かれているのは、この「第40回(20年9月)」に現代から「何か」が紛れ込んでいる事をさりげなく知らせる為。その「何か」とは…

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

この有名な作品

  • 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が出版されたのは1934(昭和9)年。
  • 1934(昭和9)年は、この物語『この世界の片隅に』の単行本の一番初めに収録されている「冬の記憶(9年1月)」の年である。
  • 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』では、ある重要なことが繰り返されている。
  • この物語『この世界の片隅に』でも、「第1回(18年12月)」のコマ割りが「波のうさぎ(13年2月)」のコマ割りを繰り返している」という有名な仕掛けがある。

そして

  • 実は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』において、郵便配達は登場人物ではない
  • 同様に、以下に記述するこの物語『この世界の片隅に』の郵便配達人も「登場人物ではない」のだ。

左下のコマで、下駄でなく草鞋を履いていることから、径子ではなさそうだと予想できる。

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p99)

上段右のコマで、径子と間違われる郵便配達人

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p100)

流しがあるので、玄関ではなく勝手口。左手の先の方に伸びているように見える細長いものは柄杓の柄だろう。

この後円太郎は玄関から入ってきているので、玄関側が塞がっていたからではなく、刈谷宛の手紙を預かってもらうために直接北條家の人に手渡したかったということだろうか。左手で鞄を探り手紙を渡しているので彼女も径子や晴美と同じく左利きのようだが。

「…ほいで すみませんが お隣の 刈谷さんのも 預かって貰えん でしょうか」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p100)

刈谷の息子の友人からの手紙。「第43回 水鳥の青葉(20年12月)」で、そこに書かれていたことが明かされる。

しかし刈谷の息子が広島から歩いて去ったのだとすると、息子の友人といえどその後の消息は把握していないはず(もしその友人が担いで長ノ木迄連れて来たのなら隣保館に放置する筈がなく)。本当は誰からの手紙なのか。この郵便配達人は本当は誰なのか。

「お湯もわいとるで」「お茶が入り ましたが…」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p100)

風呂は外から焚くので台風では多分無理。竈で沸かしていたのだろう。その火の明るさで停電下でもランプも灯せたのだろう。

「いえ あとがつかえ とりますんで」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p100)

配達先のことのように見せかけて、この物語の進行のことを言っているのかもしれない。北條家でお茶を飲んでいる場合ではないと。

「第40回(20年9月)」を2008(平成20)年10月21日号に掲載した後、次の「第41回 りんどうの秘密(20年10月)」は2008(平成20)年12月2日号に掲載なので、2回休載している。台風の真っ只中に郵便配達したのだから無理もない。

「刈谷さん心配な ですねえ……」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p101)

すずが左手でランプを持っているので、傘は周作が持つしかない。郵便配達人の出で立ちは、左側に鞄を提げ、短めの上着、長ズボン、足許はゲートル、傘は右1/6程度が破れている。


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  • 更新履歴
    • 2022/04/12 – v1.0
    • 2023/02/24 – v1.0.1(関係する投稿へのリンクを追加)
    • 2023/03/13 – v1.0.2(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/06/09 – v1.1(周作達が逃亡しなければならない理由(かもしれないこと)を追記)
    • 2023/08/02 – v1.1.1(誤字修正)
    • 2023/10/12 – v1.1.2(誤字修正)
    • 2024/08/15 – v1.2(「これはつい先月まで 不滅の神州と うたわれた島々 / 神風に護られて いたはずの島々」を追記)
    • 2024/09/17 – v1.3(『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の出版年が1934(昭和9)年であることを追記)
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