第42回 晴れそめの径(20年11月)

The view from Mt. Haigamine

記憶の切れ端

包み紙だけ本物

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p113)

第41回 りんどうの秘密(20年10月)」に引き続き「記憶」を描き続ける右手。「第40回(20年9月)」で届いたのだろう手紙を読む刈谷も描かれている。板チョコは包み紙だけ本物(影が地面に落ちていて蟻も寄って来ている)で中身は右手の落書き。

電柱の変遷

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p116)

初めは洒落たスズラン灯。それに旭日旗が飾られるようになり、次いで、金属供出のためなのか仮設の支柱に灯だけになる。最後はp117)上段の左端、わらじの左隣のようにその仮設の支柱も折れてしまう。

「国防と産業大博覧会は昭和10年春開催。」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p116)
  • しだれ柳の葉が生い茂っていることから
    • 会期末の1935(昭和10)年5月上旬だろうか。
  • 右側の座敷童子は継ぎのあてられた肩だけ綺麗。
    • つまりこの座敷童子は、1935(昭和10)年5月上旬に呉の朝日遊廓に連れて行かれる「前」に

下段左の黒村家の両親はいずれも義足ではない

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p116)

晴美初登場の時に鞄をかけていたかはよく判らない。

その上の黒村家がおしゃれして外出の帰りは、どこに行った帰りなのだろうか? 国旗を持っているが。

どれだけ泣いたのか

「刈谷さん 回覧板です」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p114)

回覧板に返事をしない刈谷。手紙を受け取ったのは1945(昭和20)年9月17日(「第40回(20年9月)」)のすぐ後だと思われるが、1945(昭和20)年11月まで泣き通しだったということか。

水原哲は生きていた

「○○ヘ ミナ元気 音戸ニテ待ツ 連絡乞フ」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p117)

宛名がちぎれたこの紙は誰が誰に宛てたメッセージなのか?

描き方を見ると、周りの回想シーン(p113)によれば「右手」が石で地面に描いたもの)と違い筆書きでなく、また隣の径子と同様の影も落ちているので、実際にこの日歩く径子の足許を舞った紙という設定と推定される。

水原哲は「第43回 水鳥の青葉(20年12月)」で音戸の近くで大破着底した青葉の近くにいるが、水原哲が書いたとすると、一人なので「ミナ元気」というのは不自然。そうすると、逆に水原哲に宛てられたメッセージで、既に青葉を離れどこかに行っていた(ので本来なら、すずが水原哲を見かけるが声をかけないという劇的なシーンは実現しない)はずの水原哲が、このメッセージを読んで送り主に会いに音戸まで来たため、「第43回 水鳥の青葉(20年12月)」でのすずとの再会(すずは声をかけないが)の実現につながったと考えられる。

残飯雑炊

「占領軍の 残飯雑炊 でした」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p118)

紙くず入りだが「正義」を抱いていた頃の楠公飯よりは確実に uma〜 な筈。

「晴れそめの径」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p113)

残飯雑炊を食べて、径子が戦後漸く初めて晴れ晴れとした気持ちになれたので「晴れそめ(初め)の径」。

美味しく食べられること(この時は生ゴミだが…)が人の心に齎す影響は大きいのだ。いつだって。

「晴美も あがいなマネを したじゃろか ……………」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p118)

軍国時代に信じたことのうち、信じ抜くに足る事、守り抜くべき事は無かったのか。そうだとすれば晴美の死は、久夫との別離はなんだったのか?

  • と思っていたら、目の前のすずの「あがいなマネ」に自分も与る事に。

そして、この径子の(晴美についての)呟きは、すずには聞こえていない。そのお陰(?)で、すずも晴々とした気分を共有しつつ残飯雑炊を楽しめたことだろう。

それはつまりどういうことなのか。

  • すずの右耳は(晴美と右手を奪ったあの時限爆弾のせいで)聞こえなくなっていた
    • 雑踏でただでさえ聞こえにくい状況下、径子の呟きは、すずの右側からだったので、すずには聞き取れなかったのだ。

右側から話しかけられても気づきにくいすずが、そのせいで、例えば1946(昭和21)年1月以降の広島に通う際の混雑した汽車内で、因縁をつけられていなければ良いのだが…

晴れ晴れとした気持ちの一方で

「うん… どうも日が まぶしうてね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p114)

知多が傘をさして眩しがるのは、入市被爆による白内障の為と思われる。

またすずとともに買い出しに行かないのは、眩しいのをおしての外出の目的が買い出しではなく病院だからなのかもしれない。p115)ですずが「お大事に」と言っているので、知多が病気であることは誰の目にも明らかなのだろう。

さらにお返しにすずに助言しているように、元看護婦でそれなりの医学知識を有しているだろう知多は、自分が白内障であることを理解しているのかもしれない。

そしてこの医学知識に基づくp115)の助言「あんたこそまだ なるべく安静にね / 骨髄炎でも起こしたら また切らにゃいけんで…」は、ただの助言では済まなかったのだ(「冬の記憶(9年1月)」で説明予定)。物語上この助言が必須(かつ、その助言の主はすずの行動を強く制限できない立場である必要がある)なので、隣組の知多の前職を看護婦という設定にしたのだろう。

  • だから「第20回(19年11月)」で触れた手塚治虫(※彼自身が医師免許を有している。また、天才的外科医が主人公の『ブラック・ジャック』は彼の代表作の一つ)の奉職年数とこの回の話数を一致させてあるのも、恐らく偶然ではない。

「えかったねえ」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p115)

知多の横顔からは、彼女の症状が(白内障だけではなく)かなり深刻そうである事が伺える。

知多が広島市に対する救助活動に参加したのは、p81)「前に勤めとった病院から 救助のトラックを出す」というのがきっかけだが、勿論彼女以外にも多くの医療関係者が救助活動にあたった。その中の一人が肥田舜太郎。1917(大正6)年1月生まれなので当時28歳。知多と同世代だろう。

  • 原爆投下前後の彼については、 さすらいのカナブン 氏の作品が以下のリンク先で読める。

彼はその後も、原爆の被害を受けた人達の診療を続けるとともに、2017(平成29)年3月に100歳で亡くなる直前まで「ぶらぶら病」「内部被曝」「低線量被曝」などについて発信を続けた。以下リンク先にもあるように、それは決して「ヒト事」ではないのだ…


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  • 更新履歴
    • 2022/04/20 – v1.0
    • 2022/12/28 – v1.1(「うん… どうも日が まぶしうてね」を追記)
    • 2023/03/13 – v1.1.1(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/06/22 – v1.2(「晴美も あがいなマネを したじゃろか ……………」に、すずの右耳が聞こえなくなっている旨を追記)
    • 2023/11/27 – v1.2.1(『ブラック・ジャック』の引用を修正)
    • 2024/06/21 – v1.3(「えかったねえ」を追記)
    • 2024/10/04 – v1.3.1(「国防と産業大博覧会は昭和10年春開催。」の読み易さを改善)
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