円太郎が死んだと思わせて
鎮守府の年表であると同時に円太郎の年表
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p11)
明治22で背負われているのが円太郎、母親といるのはおそらく円太郎の姉、周作の伯母。
- (宮古(明治32)に手を振る姉弟の、弟の着物の柄は円太郎を表す眼鏡柄であり、姉の着物の柄は花柄だが、この姉の花柄は、明治22で赤子を背負う母親の隣に居る子供と同じ柄なので、この姉弟は明治22の子供と赤子が成長した姿だと判る。)
だからこの年表は呉鎮守府の年表であると同時に円太郎の年表でもある。明治22年は1889年なので、1945(昭和20)年には満56歳。同年の周作は24歳だから、円太郎32歳の時の息子。56歳で徹夜勤務は大儀だろう。
によれば、職工の採用と定年は
海軍の場合、45才が採用の上限で、年季が10年であったので、55才定年
「定年制と平均寿命 | 社会法資料集」https://www.ritsumei.ac.jp/~satokei/sociallaw/compulsoryretirement.html
だそうだ。ロンドン軍縮条約のあおりで円太郎がいったん解雇された1931(昭和6)年には、彼は42歳になる筈なので、解雇が4年遅れたり、あるいは円太郎が4年早く生まれていたら再就職は難しかったかもしれない。
- (なお、42年というのは「第20回(19年11月)」でも紹介した「第40回(20年9月)」で確定する円太郎の奉職年数と同じだ。)
- そして、このたった4年の違いで円太郎の人生は大きく左右されたかもしれないわけだが
- 水原哲とその兄の年齢差も4年。一足先に海軍兵学校に入った期待の秀才(水原哲の兄)を待ち受けていたのは転覆事故だった…
- また「第19回(19年11月)」で触れたように、詩人西條八十にサトウハチローが師事してから「第25回(20年2月)」で触れた童謡詩人金子みすゞが見い出されるまでの時差も4年。この4年も、みすゞにとっては大きく運命を左右した。
- というのも、大正デモクラシーが齎したリベラルで文化的な気運の消滅やラジオ・レコードの普及もあって、文字で味わう童謡詩のブームは長くは続かず
- 彼女の作品が多く載った「童話」は1926(大正15)年に廃刊、ブームを牽引した他の雑誌「赤い鳥」「金の星」も1929(昭和4)年に休刊 / 廃刊。
- 彼女が師と仰いだ西條八十も流行歌の作詞へと転身(みすゞの目には変節と映っただろう…)。
- ブームの終焉までに投稿仲間の男性達は詩集を出せていたが、唯一女性の常連投稿者であったみすゞにはそうした話は無かったようだ。4年早くブームの最中であれば、あるいは違う展開もあったかもしれないのだが。
- というのも、大正デモクラシーが齎したリベラルで文化的な気運の消滅やラジオ・レコードの普及もあって、文字で味わう童謡詩のブームは長くは続かず
で、職工の定年は55歳(民間企業も55歳定年が広まっていたようだ)なのだが、円太郎は1945(昭和20)年には上記の通り56歳になる計算だ。定年を過ぎてしまっているが、人手不足かそれとも余人をもって代え難かったのだろうか?
それはともかく、年表までこしらえて円太郎の生涯を振り返っているので、読者は円太郎が死んだのだと思うだろう。そして「第32回(20年6月)」で生きていたとほっとさせておいて…
「冬の記憶」「大潮の頃」との関係
年表の昭和6年、工廠に再就職した円太郎を見送る北條家
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p12)
周作(当時10歳)はまだ呉にいるようだ。「冬の記憶(9年1月)」は周作12歳の年の冬のはずだから、尋常小学校6年生の冬になる。周作が広島の学校に通ったのは、いつなのだろうか。
年表の昭和10年に「呉市主催 国防と産業 大博覧会」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p12)
「第42回 晴れそめの径(20年11月)」でもわざわざメモ書き風に強調されており、「大潮の頃(10年8月)」との時系列の矛盾(※「呉市主催 国防と産業 大博覧会」の会期末は1935(昭和10)年5月上旬)は意識的に組み込まれたもの。
どうしようもない周作
「ああ無事じゃ ったかね 周作」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p18)
この日は土曜日。この頃は土曜日でも半ドンは取り止められているかもしれないが、それにしても周作は帰りが遅かったようだ。それで皆一層心配していた。
では周作は何をして遅くなっていたのか? 海兵団で訓練されることになってとても不安になった周作は、軍服を包んだ風呂敷包みを抱えたまま、恐らくリンの所に行っていたのだろう。(お砂糖の回「第13回(19年8月)」で描かれていたとおり)行くためのお金は十分あるのだし。
「ほうか… まあ何かありゃ 鎮守府から 連絡があろう / 昔と違うて工廠内へは 簡単に入れんけえ 待つしかないわな…」「……… ………」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p18)
一月前の「第28回(20年4月)」で、中巻p138)「安心しました」と口では言ったすずであるが、それは単に自分に言い聞かせていただけで、実は安心してはいなかった。
そして空襲は午前中のことであるのに、北條家より遥かに早く情報が届くであろう軍法会議で勤務していた筈の周作は、何故か全く状況を把握していない風情。周作はこんな遅くまでどこに行っていたのか。すずの不安 / 疑念は膨らむばかりで、(周作に指摘されるまで)鍋が噴いているのにも気づかない。
- (※円太郎の心配はしているだろうが、そのせいで心ここにあらず状態になっているのではないということ)
「それは確かに 誰かの夢 / 誰かの 夢であり / 同時に誰かの 悪夢でもある」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p14〜15)
- これを読めば誰でも
- 円太郎が(すみもそうだが)その活躍を夢見てせっせと作る( = 誰かの夢)兵器は
- 誰かが殺傷される( = 誰かの悪夢)ことに繋がるのだ
- という意味だと思うだろう。
- それはその通りなのだが
- 上記を踏まえれば、もう一つの意味がここに重なることにも気づくだろう。
- つまり、周作がリンのもとに通い続けるのは
- 「周作の夢であり / 同時にすずの悪夢でもある」
- つまり、周作がリンのもとに通い続けるのは
- 上記を踏まえれば、もう一つの意味がここに重なることにも気づくだろう。
- 更新履歴
- 2022/03/14 – v1.0
- 2023/03/12 – v1.0.1(関係する投稿のリンクを追加)
- 2023/03/13 – v1.0.2(「次へ進む」のリンクを追加)
- 2023/05/12 – v1.1(「ほうか… まあ何かありゃ 鎮守府から 連絡があろう / 昔と違うて工廠内へは 簡単に入れんけえ 待つしかないわな…」「……… ………」を追記)
- 2023/12/31 – v1.1.1( “宮古(明治32)に手を振る姉弟” についての記述を追記)
- 2024/05/31 – v1.2(「それは確かに 誰かの夢 / 誰かの 夢であり / 同時に誰かの 悪夢でもある」を追記)
- 2024/07/22 – v1.3(職工の採用と定年について追記)
- 2024/07/23 – v1.3.1(軍縮条約のあおりで円太郎がいったん解雇された時の年齢が奉職年数と一致している旨追記)
- 2024/07/24 – v1.4(4年の違いが水原哲の兄や金子みすゞに齎したものについて追記)
コメント