すずの手際の良さ
「すぎな は軽くゆで 水に晒して刻む」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p114)
甘藷を蒸した鍋とお湯を再利用している。この後の手順も火口を順序良く使うなど、限られた時間と燃料を有効利用する、すずの手際の良さを描いている。
「はこべ のざく切りを加ふ / ♪〜」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p115)
鼻歌交じりなのも、すずの手際の良さ故。
さて、はこべは春の七草の一つ「はこべら」にあたる。
ここで「はこべ のざく切りを加ふ」の最初の5文字をこれまた春の七草の一つ「ほとけのざ」と空目してみよう。で、それを元の文と並べてみる。
- はこべ のざく切りを加ふ
- ほとけ のざ
二番目の文字を縦に読むと「こと」=「琴」。
楽器名の和訳には「琴」の文字が含まれることが多いが、提琴もその一つで、ヴァイオリンを指す。まな板と包丁の組み合わせは、ちょっとヴァイオリンの本体と弓の組み合わせに似ていなくもない。
春の七草は「前日の夜に囃し歌を歌いながら、まな板の上にのせて包丁で叩いた七草を、当日の朝にお粥の中に入れるというのが昔からの風習」
出典: 七種なずな、唐土の鳥が~♪
だそうなので、まな板と包丁を楽器の伴奏に見立てて鼻歌を歌うなら、春の七草であり「こと = 琴」という言葉も浮かび上がってくる「はこべ」の調理時が一番相応しい。
厳しいのは食糧事情だけではなく
「たんぽぽ にがー…」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p116)
「第7回(19年4月)」で気遣った筈のたんぽぽが早くも食卓に並んでいる。食糧事情の厳しさを示唆している。
いわしの干物は、義父母各1、義父の翌日弁当に1、子夫婦各1/2
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p116)
貴重なタンパク源だが、4等分ではなく、家長が優先されるのだ。ここにも家父長制の一端が描かれている。
どれくらい貴重かというと…
これは名古屋市民対象の調査結果であるが
- バツ印が、当時の政府が示した必要量で
- 実線が、実際にとれていた量
- 点線は、そのうち配給で買えた分である。配給では全く足りていない…
- 実線と点線の差はヤミ物資を含む何らかの方法で調達したということになる。
- なお、1942(昭和17)年5月(※図中の17・5)から1944(昭和19)年1月(※図中の19・1)にかけて配給が増えているように見えるが、これは配給で規制される品目が増えたためだと思われる…
- 点線は、そのうち配給で買えた分である。配給では全く足りていない…
決して腹いせでは…
「径子らが 居らんと 静かなねえ」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p115)
径子と晴美が黒村家に戻っている(戻る時の様子は次々回「第10回(19年6月)」の「こまつな」の回で描かれる。次に北條家に来るときには離縁している)。
すずは、径子滞在中は料理をあまり任されなかったと推定されることから、径子が居なくなったので張り切って刈谷に調理法を教わっていたのかもしれない。
右下のコマで刈谷が摘んだ野草をすずに見せている
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p113)
ので、刈谷が実践(しようと)している調理法をすずに教えているのであり、天秤棒で殴られた腹いせに楠公飯を教えたわけではない。…筈。
- いや、腹いせなんてとんでもない。楠公飯を教えるのに、刈谷ほど相応しい登場人物はいないのだ、実は(詳細は「第43回 水鳥の青葉(20年12月)」にて)。
そして
- この時の刈谷の着物の柄は「第4回(19年2月)」p82)で回覧板を持ってきた堂本が着ている半纏の柄と何故か似ているが、刈谷がこの柄の着物で登場するのはここだけ。
- そもそも堂本のこの柄の半纏自体、p82)で回覧板を持ってきた時にしか登場しない。
- つまりこれも、堂本が着ている半纏の柄に「第4回(19年2月)」で触れた仕掛けがあることに気づいて貰う為の仕掛けなのだろう。
径子と晴美が北條家を一旦去り、(離縁して)また戻ってきたのはいつ頃か
「御休みなさい」「何!? / すぐ戻る わよ」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p118)
大和は1944(昭和19)年4月22日に呉を出撃し、同年6月20日に初めて主砲を発射(対空砲弾)した後、4日後の6月24日に戻っている。径子も同じような日程で北條家を出た後、また戻ってきている(主砲を発射する代わりに離縁してきた…)。
「御休みなさい」と言われて径子が反応しているのは、主要登場人物の出番が「御休み」な連載回でストーリーとは関係なく顔を出すという漫画の定番の手法(主砲)だろうか。
敢えて描かない(書かない)ことが、ある
「やあやあ 我こそは 楠木正成 / 南北朝時代の えら〜い武将なるぞ」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p117)
「あれを喜んで召し上がる 楠木公という人は ほんまの豪傑なん じゃろうねえ…」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p120)
この回で描かれる楠木公 = 楠木正成は、皇居外苑にある銅像がモデルとなっている(p117)右上のコマがほぼ銅像通り、ただし左右が逆)。
この銅像は、住友家がその基礎を築いた別子銅山二百年の記念に、
- その銅山で産出した銅を用い
- 室町時代に書かれた軍記物語である『太平記』で忠臣として描かれ、1880(明治13)年には正一位を追贈されるなどの扱いであった
楠木正成の像を1900(明治33)年に献納したもの。
ただ
- 『太平記』が書かれた時代の幕府を開いた尊氏からすれば楠木正成は最終的には敵対した武将であり、『太平記』自体が書かれた当時の武将達の検閲を経て完成したとされている割には、(尊氏側も楠木正成に一定の敬意を払っていたとはいえ)扱いが破格
- また『太平記』に書かれた楠木正成の出自も、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕に失敗して逃れる最中に見た夢の「木の南側に設た玉座で身を隠せ」というお告げから「木の南なら楠」とその名の武将を探し回って楠木正成を見つけた、というかなり怪しげなもの
である。
この『この世界の片隅に』という物語に、敢えて描いていない大切な事柄が色々隠されているのと同様、『太平記』でも、書くのには都合の悪い事を「書かない」為に(恐らく歴史的にそこまで大きな役割は担っていなかっただろう楠木正成を)敢えてヒーローとして祭り上げたのだろうか。
それ故に楠木正成の実像はあまり定かではない、ということも踏まえれば、p120)のサンの台詞で傍点が振られている「豪傑」は、武勇に優れている人とか細かい事にこだわらない人とかいう具体的な実像に基づくイメージではなく、単に「一風変わった人」という程度の意味合いなのであろう。
- 更新履歴
- 2022/02/26 – v1.0
- 2023/02/09 – v1.1(「敢えて描かないことがある」を追記)
- 2023/03/13 – v1.1.1(「次へ進む」のリンクを追加)
- 2023/03/14 – v1.2(「すずの手際の良さ」を追記)
- 2023/09/18 – v1.2.1(誤字修正)
- 2023/09/28 – v1.2.2( “(出典)七種なずな、唐土の鳥が~♪” の引用を修正)
- 2024/06/06 – v1.3(「戦時下における名古屋市民の栄養摂取の状態について」を追記)
- 2024/06/07 – v1.3.1(「戦時下における名古屋市民の栄養摂取の状態について」のグラフ中、配給が増えたように見える理由を追記)
- 2024/06/11 – v1.3.2(楠木正成像についてのリンクを追加)
- 2024/10/29 – v1.4(刈谷の着物の柄の仕掛けについて追記し、「第43回 水鳥の青葉(20年12月)」へのリンクを追加)
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