第4回(19年2月)

The view from Mt. Haigamine

隣組

「『隣組』昭和十五年」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p81)

何故唐突に当時の流行歌がここに登場するのか。

それは、同時代に歌謡曲の作詞家として活躍したある人物が、このページの冒頭にも描かれている、すずの名札に書いてある諸々の由来だから(そしてそれに留まらない深い関係があるのだ…詳細は「第25回(20年2月)」に続く…)。

「詞 / 岡本一平」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p81)

岡本太郎の父である岡本一平が歌詞を書いた『隣組』は、作 / 編曲の飯田信夫によるメロディも大変親しまれヒットしたが、実は岡本一平は、「第20回(19年11月)」で触れるある漫画家も、昭和のマンガ史でまず語らなければならない一人に挙げている、大正から昭和戦前に活躍した漫画家である。

この回が『隣組』という流行歌にのせて展開されているのは、上記リンク先(第25回 / 第20回)の投稿で触れている、この物語『この世界の片隅に』の構造を決定づける大きな2つの要素を、さりげなく指し示す為でもあったのだ。

「隣組 / 一九四〇〜四七年の地域組織。連帯責任制のもと、政府の通達や生活必需品の配給などを行う。この歌の曲は、現代では『ドリフの大爆笑』の主題曲として なじみ深いです。」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p81)

最終回 しあはせの手紙(21年1月)」で触れる予定だが、この物語は実はある人物が語り継いでいる体。

  • そしてそれは、占領軍により隣組が一旦禁じられた1947(昭和22)年かそれより前(但し1946(昭和21)年1月以降)に「冬の記憶(9年1月)」で起動するのだ。
    • (この段階では何を言っているのかまるで不明な文章かと思うが、このサイトの一連の投稿を一通り読むと理解できる筈。)
    • 1947(昭和22)年より前である理由については「第20回(19年11月)」で触れる予定。

この『隣組』の替え歌が『ドリフの大爆笑』で使われ始めるのは1978(昭和53)年1月(田辺聖子『欲しがりません勝つまでは』刊行の翌年)。

  • 以降、今日に至るまで使われ続けている。
  • ドリフのメンバーが揃うことが叶わなくなって以降もずっと。

そのある人物が、この回(第4回)を語る時にはきっと

  • 『隣組』がその(ドリフの大爆笑の)替え歌の元ネタなのだという説明を付け加えつつ、そこに
  • この物語も、その替え歌と同様(語り手が替わっても)ずっと長く語り継いで欲しい

という願いを込めていたに違いない。

  • 第39回(20年8月)」で示唆される田辺聖子『欲しがりません勝つまでは』が同様の趣旨で、「若い人たちに私が語り継ぐ」と締めくくられたように。

知多と刈谷

「知らせられたり 知らせたり」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p82)

「知」らせられ「た = 多」「メリ = 刈」 知らせ「たり = 谷」。二人の名前の由来と思われる。知多と刈谷の似顔絵の間の交差した刀をメと読むのがポイント。

上段のコマで知多の転落を目撃した刈谷は、中段ですぐさま引っ張り上げている

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p86)

先ほどまで激しく喧嘩していたはずだが。

「どろぼう」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p85)

p85)中段のコマで、解けたすずの風呂敷を、知多が荷物を持たない右手だけで支えようとしている。下段のコマでは、知多は荷物を小脇に抱えて、すずの風呂敷を結び直している。

つまり知多に結び直して貰う為にすずが左肩を引いた結果、天秤が刈谷と堂本を薙ぎ倒したのだ。

  • (天秤)引いた(draw) = draw 棒 = どろうぼう ≒ どろぼう

お判りだろうか。

  • そしてdrawには引き分けの意味もある。
    • だから知多と刈谷の喧嘩もdraw = 引き分けなのだ。すずの天秤棒のお陰で。

知多と刈谷の喧嘩が引き分けでなくてはならない理由

では何故知多と刈谷の喧嘩が引き分けでなくてはならないのか。

  • 知多も刈谷も、物語の終盤で、一般的には不幸と見做されるであろう出来事に見舞われる。
    • 読者はつい、どちらがより不幸だろうか、などと考えがちである。
    • つまり不幸には程度があって比較可能だと。
  • その延長線上で、原爆で亡くなった人 / 誰かを亡くした人は、それ以外の理由で亡くなった人 / 誰かを亡くした人よりも不幸だとも。

しかしそんなことが他人に決められるのだろうか。あるいはそういうことをする資格が他人にあるのだろうか。

  • 第43回 水鳥の青葉(20年12月)」でもすずの口から語られるこの「資格」という言葉。
    • それは(詳細は「第43回 水鳥の青葉(20年12月)」で説明予定だが)合理的な理由、あるいは因果関係があるという意味合いであって
    • かつ語られる文脈としては「ない」だから
  • 「他人の不幸についてその程度を比較して決めることが可能なのか? / あるいはそういうことをする資格があるのか?」というこの疑問文への答えも「ない」なのだろう。

そのこと(他人の不幸は比較できないし、すべきでもない)を暗示するために、知多と刈谷の喧嘩について、勝ち負けを示さず、引き分けであると明示したのだ。

  • すずの振る舞いを通してなので、明示という表現には語弊があるが。

堂本

バケツに「堂本」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p85)

p82)で回覧板を持ってきた女性が(知多や刈谷の家族ではなく)堂本だと判る描写。

  • p82)で堂本が着ている半纏の柄は
    • 『この世界の片隅に』の掲載誌である『漫画アクション』に掲載されていた『じゃりン子チエ』の主要登場人物の一人、百合根光三 愛用の半纏と同じ柄だ。
      • (但し堂本の半纏は、百合根のそれとは違いスミベタは入っていない

百合根は博打屋「遊興倶楽部」を経営していた社長、つまり胴元であった(その後、愛猫アントニオを亡くして、お好み焼き屋「堅気屋」に転業した)。

  • ここから
    • 胴元 = どうもと = 堂本
  • となる。

まとめられたり

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p88)

左下の2人の頭のスミベタの部分に塗りもれがある。

  • 堂本の半纏に(百合根光三 愛用の半纏と違い)スミベタが入っていないように。
  • これと
    • 上記の堂本の半纏の柄を「まとめられたり」つまり考え合わせることで
    • 「堂本」の名前が『じゃりン子チエ』由来であることに気づかせる
  • という仕掛けになっている。

そしてこのような手の込んだやり方で『じゃりン子チエ』と関係づけているのは、それが「冬の記憶(9年1月)」に秘められた仕掛けに気づかせる為の仕掛けの一部だからだ(詳細は「冬の記憶(9年1月)」の「砂利が ちらばっ とろうが」にて)。

(第3回の)出征の予感(を受けたオチ)

「まとめたり」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p88)

周作の丸刈りを見て隣組の一同が驚くのは、出征かと勘違いしたから。「明るうて ええですね」というすずのとぼけた言葉は、その驚きをごまかしているもの。


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  • 更新履歴
    • 2022/02/23 – v1.0
    • 2022/05/23 – v1.1(「『隣組』昭和十五年」を追記)
    • 2022/12/02 – v1.2(「詞/岡本一平」を追記)
    • 2023/03/13 – v1.2.1(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/04/24 – v1.3(「隣組 / 一九四〇〜四七年の地域組織。連帯責任制のもと、政府の通達や生活必需品の配給などを行う。この歌の曲は、現代では『ドリフの大爆笑』の主題曲として なじみ深いです。」を追記)
    • 2023/08/02 – v1.3.1(誤字修正)
    • 2023/08/30 – v1.4(「どろぼう」を追記)
    • 2023/08/31 – v1.5(「知多と刈谷の喧嘩が引き分けでなくてはならない理由」を追記)
    • 2023/08/31 – v1.5.1(他人の不幸は比較できないし、すべきでもないことを暗示するための引き分けである旨加筆)
    • 2024/10/27 – v1.6(「堂本」を追記)
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