すずを気遣うサンと径子
「汽車は小屋浦で 折り返しよるげな」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p79)
汽車が広島の手前で折り返し運転になってしまったので、すずはこの日(20年8月6日)予定していた広島行きを諦めた。
「すずさん家は 大丈夫かいね」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p80)
このサンの発言は、汽車で行けないことから広島行きを諦めたすずに「様子を見に行ったほうがいいのではないか」と敢えて勧める意図。
- サンはp72)「すずさんが 居らんくなるんは 寂しいねえ……」というサン自身の気持ちよりも、すずの気持ちを慮り、北條家の事は気にせず、「第35回(20年7月)」にすみが駆けつけたように、何かイレギュラーな手段を確保してでも行くべきだ、と言っているのだ。
- (20年8月6日の朝にはすずを引き留めた)径子もそのサンの意図を理解し、黙っている。
この時点で北條家の誰にも「すずさん家」の、あるいは広島の正確な状況は判らないのだから
- 「すずの実家の浦野家は大変な事になっている筈だからその事に触れてはいけない」などと考えたり
- その前提で母親を嗜めたりする筈がない。
圧倒的な暴力
中段のコマやや左に、広島から飛んできた障子が小さく見える。
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p79)
ざっくり推定で距離100〜150m、高低差40〜50m。すずに当たらなかったのは不幸中の幸い。
「それが 昨日から 来んのよ…」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p80)
1945(昭和20)年8月6日朝8:15迄は何事もなかったのだから、8月7日朝から来ない(※この頃既に夕刊は廃止され朝刊2頁のみなので)のだとすると、この日は8月8日。すずが知多にユーカリを託すのは翌朝だから1945(昭和20)年8月9日。
「うちも息子が 陸軍へとられとる 心配なわ…」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p82)
見開きの隣の頁p83)の、このコマと丁度隣り合わせのコマに、腰掛けている黒い影がある。隣り合わせなのに気づけない…
「そんとな暴力に 屈するもんかね」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p86)
障子が広島から飛んでくるほどの圧倒的な暴力( = 原子爆弾)。それを広島に行かずともすずに実感させるために、障子が用いられている。そして「屈するもんかね」とは、戦い続けるという「歪んどる」考えなのか。
ただ、すずがどう考えようとお構いなしに、この数時間後には、1945(昭和20)年8月9日の11時2分(長崎への原爆投下の日時)がやってくるのだ…
そして、この「暴力」は原子爆弾やB29といった米軍の暴力だけを指しているのではない(以下、及び「第39回(20年8月)」で詳述)。
すずは「よそ者」で「けが人」
「じゃ 刈谷さん 来る?」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p82)
すずはここでも「よそ者」としての疎外感を味わう。
「けが人は 足手まとい じゃ!!」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p82)
このコマに続く2つのコマで、すずは怪我した右手を左手で触り、次いで左手を握り締める。切られた髪がずり落ちていく。すずは、怪我のために家事ができないのみならず、広島に行く機会も得られない。怪我のない、「よそ者」ではない刈谷は行けるのに。
「…うちも 乗してって 貰えますか」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p81)
すずも、自分がけが人であり、周りに迷惑をかける事になりかねないのは百も承知である。しかし上記「すずさん家は 大丈夫かいね」の通り、サンから強く勧められた、そのサンの配慮を受けての、すずの強い要求なのである。
- 北條家の女性達の総意と言っても良い。
- それを無下に断る隣組の人達。
下記「そんとな暴力に 屈するもんかね」で触れているように、すずがユーカリに「別の含み」を持たせたくなるのも、だから無理はないのだ。その効果の程は「第19回(19年11月)」で周作相手に実験済みであるし。
互いに気遣う(?)「この町の人」
「うちの人も近いうち 広島へ用事がある あせらんことよ」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p83)
小林の伯母も次回描かれる玉音放送の場にいないことから、小林夫妻はともに広島に入ったのだろうか。けがをしていて広島に行けないすずを気遣って、本来は小林の伯父だけが用事があったところ、伯母も同行したのかもしれない。
「ユーカリを 摘んで来ました 蚊遣りに 使うて下さい」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p85)
次頁のB29は、大きな蚊に見えたかもしれない。
「うちは 強うなりたい 優しうなりたいよ この町の人みたいに」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p86)
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている値打ちがない」という私立探偵フィリップ・マーロウの台詞が思い起こされる。
- そういえば彼は自称42歳。
- 「第40回(20年9月)」で確定する円太郎の奉職年数でもあり
- 「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』)でもある。
このフィリップ・マーロウの台詞。原文は「If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive. 」
すずの「強うなりたい / 優しうなりたい」はSeven Seas Entertainment版の英訳では「to be stronger / to be kinder」と訳されている。「この町の人みたいに」と続くので、人に対して使われるstrong / kindで訳すのはごく普通なのだが
- ここの「強う」は、すずが広島行きを懇願しても聞き入れてくれなかったという意味合いが込められているのでただただ硬い「hard」の方が
- そして「優しう」は、すずへの気遣いはあるもののいつまでも「北條の嫁さん」としか呼ばれないあたりからも、無生物にも使えて親しみの意味合いがなくてもよい「gentle」の方が
どうもより馴染みそうである。
- やはりこのすずの台詞はフィリップ・マーロウの台詞が下敷きになっているのだろう。
そう考えると、気になるのは彼の台詞の「wouldn’t be alive / wouldn’t deserve to be alive」の部分である。
- (フィリップ・マーロウのようにhardになれる筈もなく)亡くなっていった一人一人の、生き延びられなかったが故にそのままでは語られない、でも語られるに値する(deserve)
- あるいは「あとがき」にある「『誰か』の『生』の悲しみやきらめきを知ろうと」する
ことは、(作者以外では)誰によって担われるのか。それは
- 「最終回 しあはせの手紙(21年1月)」で登場する彼女でもあり
- もしかしたらこの物語を読んでいるあなたでもあるかもしれない
そういう問いかけが込められているのだろう。
「そんとな暴力に 屈するもんかね」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p86)
前項で触れた「強う」や「優しう」にすずが含めている意味を踏まえれば、隣組の人達から受ける扱いもすずにとっては圧倒的な「暴力」で、それは原子爆弾やB29のそれとも比肩し得るものだ、ということなのだろう。
「屈するもんかね」ということだから、「蚊遣りに」と渡したユーカリには、別の含みも持たせているのかもしれない。
- 更新履歴
- 2022/04/05 – v1.0
- 2023/02/24 – v1.0.1(「第40回(20年9月)」へのリンクを追加)
- 2023/03/13 – v1.0.2(「次へ進む」のリンクを追加)
- 2023/03/25 – v1.1(「うちは 強うなりたい 優しうなりたいよ この町の人みたいに」にフィリップ・マーロウの台詞との関係の詳細を追記)
- 2023/03/26 – v1.2(2つめの「そんとな暴力に 屈するもんかね」を追記し、見出しを “互いに気遣う(?)「この町の人」” に変更)
- 2023/07/24 – v1.2.1(「暴力」が原子爆弾やB29といった米軍の暴力だけを指しているのではない旨追記)
- 2023/08/08 – v1.3(「すずを気遣うサンと径子」を追記)
- 2023/08/09 – v1.4(「…うちも 乗してって 貰えますか」を追記)
- 2024/07/09 – v1.4.1(1945年8月のカレンダーを追加)
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