『空色心経』備忘録(第1期)

The view from Mt. Haigamine

祝 連載開始

摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)

こうの史代(2023-2024)『空色心経』 https://ameblo.jp/k234-2021/

『空色心経』は般若心経を考えていく漫画、ということですので、そもそも般若心経に何が書いてあるのかを含め、気づきました点を連載に沿って記していきたいと思います。


いずれ #こうの史代 先生から説明があるかもしれませんが #空色心経 空色パートの ’布施’ ‘持戒’ ‘忍辱’ ‘精進’ ‘禅定’ ‘般若(智慧)’ は菩薩に課せられた6つの実践徳目(六波羅蜜多)です。前の5つは6つ目を得る為の手段とされています。


#空色心経 第5回欄外にある ‘観自在菩薩’ というのは ‘観世音菩薩’ と同じでして、つまり皆様お馴染みの ‘観音様’ です。般若心経は観自在菩薩が舎利子(釈迦の信任が最も篤い弟子)に語り聞かせている体裁のものなのです。


前回ご紹介した ‘舎利子’ は梵語ではシャーリプトラ。シャーリは母親の名前、プトラは息子の意味なので、この彼が ‘舎利子’ なのでしょう。般若心経は彼に語り聞かせる形態ですが、さて物語はどう展開するのでしょうか…


欄外の ‘行深般若波羅蜜多時’

’般若波羅蜜多’ が “般若(智慧)’ を得る為の実践でしたから、それの深ーいのを行じていた時に、くらいの意味でしょうか。


欄外の ‘照見五蘊’

五蘊があると見た、ということですが、五蘊とは ‘色’ ‘受’ ‘想’ ‘行’ ‘識’ を指し ‘色’ が物質でその他の4つは心の働きをそう区分したようなものです。五蘊は実在するけれど例えば ‘私’ なんてのはそれらの事象が集まった関係性の中で生じる虚像であって実体は無いよというのが釈迦の教えですが、観自在菩薩が登場する般若心経では ‘照見五蘊’ の後に ‘皆空’ が続いて、釈迦はあると言った五蘊も実体は無いのだ、と釈迦の教えを一見否定しています。

なお ‘観自在’ というのは(この世を)自在に観察する人、くらいの意味です。

ということで「そして」の続きが気になりますね。


カラッポになってしまいましたね。

さてこの欄外の ‘皆空’ ですが、釈迦の教えの ‘空’ と、般若心経の ‘空’ は全く違うものです。

釈迦の教えでは五蘊は実在し、だからそれらの要素間の因果則(Na+とCl-は結合するみたいな)も実在します。ただその因果則から生じるもの(この場合は NaCl = 塩)は因果則に基づくとはいえ、あくまでその相互作用による事象に過ぎず虚像だから ‘空’ だし、例えば ‘私’ も(同様に虚像に過ぎないので)’空’ なのだと。

従って釈迦の教えでは「こうだったら良いのにな」という因果則を無視した庶民の願いは叶わないのです。法律を悪用する政治屋や政商達は、因果則に守られてのさばり続ける…

しかし般若心経では五蘊も因果則も ‘皆空’ だとしています。

だから因果則に縛られない、願う人に都合の良い事が起こり得る事になる…法律を悪用する政治屋や政商達が一網打尽になる日がくる(かもしれない)。

  • (※仏教的には、因果則に縛られないことで、輪廻を止めて本来行けない筈の涅槃に行けちゃう大乗仏教、ということになります。一網打尽はあくまで世俗的な喩え…)

あなたならどちらの教えを信じたいでしょうか。

そしてこれはまた、古典力学と量子力学の関係にも少し似ています。後者は事象を確率で記述するので、前者のような強い因果則が成り立ちません。ちょっと日常的な感覚ではついていけないですが、この量子力学なくして現代の最新技術は成り立たないのです。同じように、釈迦の教えだけでなく(何もかも ‘空’ だという、日常感覚的には難しそうな)般若心経もきっと、私達の社会に必要な何かを秘めているのでしょう。


既にご説明したように釈迦は、因果則の下、煩悩を消し涅槃に至る事で苦しみから抜け出せると説いたのであって ‘皆空’ とは言ってません。

‘…思わないか?’ が釈迦の台詞のようにも見えますがこの後どう描かれるのでしょう?

ワクワクしますね


般若心経は、観自在菩薩が舎利子に語る側で、瞑想に入っている釈迦がそれを聞いている設定ですから、最後のコマの定印(瞑想に入っていることを示す)の主は釈迦かもしれません。


序分で舎利子が観自在菩薩に呼びかけている部分の ‘善男子’ は ‘若〜’ となっている(梵語も同様)ので関係代名詞と捉えれば、善男子であるところの人、くらいの意味のようです。その後 ‘欲修行〜’ と続きますし。


あら、付け足されていますね。

‘如是我聞’ は序分の冒頭の方にありますが、主語は序分を書いた後世の誰かだと思われます。

また、観自在菩薩の語る内容は般若波羅蜜多しつつ照見したものなので、釈迦から感受した位置付けではないようです。


既にご説明しましたが、マス目で喩え直せば

  • 釈迦の教え : ‘マス目を埋める何か’ は実在するけれど、それが描く ‘わたし’ や ‘あなた’ や ‘世界のすべて’ はマス目に沿って描かれる虚像
  • 般若心経 : ‘マス目を埋める何か’ も ‘マス目’ も虚像

‘空’ 自体に意味があるのではなく何故 ’空’ と言わなければならなかったか、に意味があって。それは釈迦が前提とした因果則を無効にしたかったから。それにより煩悩を消さないと苦しみから逃れられないというハードルを下げたかったのです。


観自在菩薩の別の姿である千手観音、仏像では通例42手なのだそうです。

42と言えば誰かの奉職年数


  • 第13回の空間に宿る/らないは(時間は一方向、かつ光速を超えて情報は伝達されないが故の)物理学的因果律ともとれるし
  • 今回の躍動もひも理論風味。

#こうの史代 先生は、因果則を否定した般若心経を取り上げながら釈迦の教えに迫るおつもりなのでしょうか…


‘受想行識’ は、五蘊の ‘色( = 物質)’ 以外の、心の働きを4つに区分した ‘受’ ‘想’ ‘行’ ‘識’ を指します。般若心経ではこの後 ‘亦復如是’ と続き、それらも ‘色’ 同様に ‘空’ だとして、釈迦の教えを否定しています。


善い行いを重ねれば涅槃に至る? いえいえ、それさえも煩悩なので、そういう思いでおばあさんに親切にしてもダメ、なのです。釈迦の教えによれば。

それは普通の人にはちょっと無理…なので、それを否定して超える必要があったのでしょう


繰り返しになりますが ‘受想行識’ は、五蘊の ‘色( = 物質)’ 以外の、心の働きを4つに区分した ‘受’ ‘想’ ‘行’ ‘識’ を指すので、’色’ を受け取ったり想ったりということではないです。

物質(或いは肉体)を心が受け取るなんて変でしょ?


釈迦があるとした五蘊(色/受/想/行/識。人を構成する要素)さえ実体がないと観自在菩薩は言っています。
‘空っぽ’ なら容器はある事になりますがそれも無いのです。


釈迦の教えは基本的に自己の救済です。自分の心の苦しみを自分で解決するのです。
しかし弱い立場の人は、大切な人を亡くした悲しみは、どうすれば良いのか。般若心経は、その問いかけに答えようとしたものの一つ、なのでしょう…


舞台となっている明智藪はこの辺りでしょうか。

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次